Qraft (クラフト)

QR コード発明者・原昌宏の知られざるエピソード

昼休みの囲碁が生んだ発明

1994 年、デンソー (現デンソーウェーブ) のエンジニアだった原昌宏氏は、自動車部品工場の在庫管理を効率化するための新しいコードの開発に取り組んでいました。従来のバーコードは横方向にしか情報を持てず、格納できるデータ量に限界がありました。「縦横の 2 次元にデータを持てるコードを作れないか」という課題に対し、原氏がヒントを得たのは、昼休みに同僚と打っていた囲碁でした。

囲碁盤の上に白と黒の石が規則的に並ぶ様子を見て、「白黒の格子パターンでデータを表現できるのではないか」と着想したと、原氏自身がインタビューで語っています。囲碁の盤面は 19×19 の格子で、361 個の交点に白か黒の石を置く。この構造は、QR コードモジュール配列と本質的に同じです。日本の伝統的なボードゲームが、世界を変えるテクノロジーの着想源になったという事実は、イノベーションが日常の中から生まれることを象徴しています。

「汚れても読める」への執念

原氏が開発にあたって最も重視したのは、「工場の過酷な環境でも確実に読み取れること」でした。自動車部品工場は、油汚れ、金属粉塵、高温、振動が日常的に発生する環境です。バーコードは汚れに弱く、ラベルの一部が汚れただけで読み取りエラーが頻発していました。

この課題を解決するために導入されたのが、Reed-Solomon 符号による誤り訂正機能です。コードの最大 30% が損傷しても元のデータを復元できるこの機能は、QR コードの最大の技術的特長となりました。原氏は、工場の現場に何度も足を運び、実際の汚れ方や破損パターンを観察して、誤り訂正のパラメータを調整したと言われています。

もう一つの執念は「高速読み取り」でした。工場のラインでは、部品が高速で流れてくるため、スキャナーが瞬時にコードを認識する必要があります。QR コードの 3 隅に配置されたファインダーパターン (位置検出パターン) は、どの角度からでも瞬時にコードの位置と向きを特定するための工夫です。この設計により、QR コードはバーコードの約 10 倍の速度で読み取れるようになりました。

特許を無償開放した戦略的決断

QR コードの歴史において最も重要な転換点は、1999 年にデンソーウェーブが QR コードの特許を無償で開放する決断を下したことです。この決断がなければ、QR コードが今日のように世界中で使われることはなかったでしょう。

当時、2 次元コードの規格は複数存在し、競合する技術 (PDF417、Data Matrix、MaxiCode など) がそれぞれライセンス料を徴収していました。デンソーウェーブが特許を無償開放したことで、QR コードは「誰でも自由に使える」唯一の 2 次元コードとなり、採用のハードルが劇的に下がりました。

この決断は、短期的にはライセンス収入を放棄するものでしたが、長期的には QR コードを世界標準に押し上げ、デンソーウェーブのブランド価値と QR コード関連製品 (リーダー、生成ソフトウェア) の市場を拡大しました。「技術を囲い込むのではなく、開放することで市場全体を大きくする」という戦略は、後のオープンソースソフトウェアの思想にも通じるものがあります。

欧米での「再発見」と COVID-19

QR コードは日本では 2000 年代から広く使われていましたが、欧米での普及は大幅に遅れました。2010 年代前半、欧米のマーケティング業界は QR コードを「使いにくい」「ダサい」と評価し、一時は「QR コードは死んだ」とまで言われました。

転機となったのは、2017 年に Apple が iOS 11 のカメラアプリに QR コードの読み取り機能を標準搭載したことです。それまでは専用アプリのインストールが必要だったため、一般消費者にとってのハードルが高かったのですが、カメラを向けるだけでスキャンできるようになったことで、利用の障壁が一気に下がりました。

そして 2020 年、COVID-19 のパンデミックが QR コードの欧米での普及を決定的にしました。非接触でメニューを閲覧する、ワクチン接種証明を提示する、入店時の健康チェックを行う。これらの用途で QR コードが爆発的に普及し、「QR コードは死んだ」という評価は完全に覆されました。パンデミックという予期せぬ出来事が、日本で生まれた技術を世界標準に押し上げたのです。

発明者が語る「QR コードの未来

原昌宏氏は、2014 年に欧州発明家賞 (European Inventor Award) の「大衆賞」を受賞しました。この賞は、社会に最も大きなインパクトを与えた発明に贈られるもので、QR コードの社会的貢献が国際的に認められた瞬間でした。

原氏はインタビューで、QR コードの未来について「自分が想像もしなかった使い方が次々と生まれている」と語っています。工場の在庫管理のために作ったコードが、決済、医療、教育、エンターテインメント、宇宙開発にまで使われている現実は、発明者自身にとっても驚きだったようです。

「技術は、作った人の意図を超えて進化する」。原氏のこの言葉は、QR コードの 30 年の歴史が証明しています。1994 年に愛知県の工場で生まれた小さな白黒のパターンが、2020 年代には世界中の人々の日常生活に不可欠なインフラになっている。この物語は、一人のエンジニアの執念と、技術を開放するという勇気ある決断が、世界を変えうることを教えてくれます。

発明やイノベーションの物語に興味がある方には、発明の歴史に関する書籍がおすすめです。偶然と必然が交差する発明の瞬間を、臨場感をもって追体験できます。