Qraft (クラフト)

白と黒の四角が世界を変えた話 - 自動車工場から生まれた大発明

始まりは「バーコードが遅い」という不満だった

1990 年代初頭、愛知県にあるデンソー (現デンソーウェーブ) の工場では、自動車部品の管理にバーコードを使っていました。しかし、バーコードには大きな問題がありました。格納できる情報が少なすぎるのです。1 つの部品に対して何枚ものバーコードを貼り、1 枚ずつスキャンする必要がありました。作業員は 1 日に何百回もスキャナーを振り、腱鞘炎になる人もいたそうです。

「1 回のスキャンで、もっとたくさんの情報を読み取れないか」。この素朴な疑問が、世界を変える発明のきっかけになりました。開発を任されたのは、当時 30 代のエンジニア原昌宏さんと、わずか 2 人のチームでした。

囲碁の盤面からヒントを得た

原さんのチームは、バーコードの「横一列」という制約を取り払い、縦と横の 2 方向に情報を持たせる 2 次元コードの開発に着手しました。しかし、2 次元にすると「どこが始まりで、どこが終わりか」をコンピュータに教えるのが難しくなります。

ヒントは意外なところにありました。原さんが昼休みに囲碁を打っていたとき、碁盤の上に並ぶ白と黒の石のパターンが目に入りました。「碁盤のように、白と黒のマス目で情報を表現すればいい」。さらに、3 つの隅に大きな四角い目印 (ファインダーパターン) を置くことで、どの角度からでも瞬時に位置を特定できる仕組みを考案しました。

1 年半で完成、しかし最大の決断はその後にあった

開発開始から約 1 年半後の 1994 年、2 次元コードは完成しました。バーコードの約 350 倍の情報量を格納でき、読み取り速度は 10 倍以上。汚れや傷にも強い。工場での実用テストは大成功でした。

しかし、最も重要な決断はこの後に下されました。デンソーウェーブは、この技術の特許を取得したうえで「特許権を行使しない」と宣言したのです。つまり、誰でも無料で使えるようにしました。もし特許料を取っていたら、莫大な収益を得られたはずです。しかし「広く使われてこそ価値がある」という判断が、この技術を世界標準に押し上げました。

日本の工場から世界のスマホへ

最初は自動車工場の部品管理だけに使われていた白黒の模様は、やがて物流、医療、食品管理へと広がりました。転機は 2002 年、日本の携帯電話にカメラが搭載され始めたことです。カメラ付き携帯で模様を読み取れるアプリが登場し、一般消費者にも身近な存在になりました。

2017 年、Apple が iPhone のカメラアプリに読み取り機能を標準搭載したことで、世界中に爆発的に普及しました。2020 年のコロナ禍では、非接触でメニューを表示したり、ワクチン接種証明を管理したりする手段として、この技術は社会インフラの一部になりました。愛知県の工場で 2 人のエンジニアが始めたプロジェクトが、30 年後に世界 80 億人の生活を変えたのです。

発明者が語る「無料公開してよかった」

原昌宏さんは後のインタビューで、特許を無料公開した判断について「後悔はまったくない」と語っています。特許料を取っていたら、ここまで普及しなかっただろうと。実際、同時期に開発された他の 2 次元コード (Data Matrix、PDF417 など) は特許や規格の制約があり、普及が限定的でした。

2014 年、原さんは欧州発明家賞を受賞しました。日本人として初めての受賞です。審査委員会は「特許を無料公開するという決断が、この技術を世界標準にした」と評価しました。技術の価値は、独占することではなく、広く使われることで最大化される。この発明は、そのことを証明しています。